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『中世思想研究』第51号和文要旨

第51号和文要旨 2009年(平成21年)10月20日発行

第51号目次

論文

土橋 茂樹,バシレイオスのウーシア-ヒュポスタシス論

 本稿では、バシレイオスによる二つの主要教義書『エウノミオス論駁』と『聖霊論』を中心に、彼の新ニカイア派とも称すべき三一論的見解に基づくウーシア-ヒュポスタシス論の展開を追ってみたい。そのために、(I)まず両概念各々の思想背景を概観した上で、ストア派起源のヒュポスタシス/エピノイア区分を準拠枠として、バシレイオスと新アレイオス主義の雄エウノミオスのウーシア-ヒュポスタシス論を比較考察する。次いで(II)バシレイオス自身の神学者としての経歴からすれば比較的前期の作といえる『エウノミオス論駁』およびその 後に書かれた書簡から、その時期に彼が直面していた問題をギリシア哲学に根差したウーシア‐ヒュポスタシス論の展開として見た後、(III)晩期の作『聖霊論』において最終的に彼が到達したウーシア観がいかなるものであったかを究明していきたい。このようにして彼のウーシア-ヒュポスタシス理解の深まりを、三一論における論敵たちとのその都度の神学論争を手掛かりにして哲学的に跡付けていくこと、それが本稿の意図するところで ある。

川原田 知也,13世紀パリ筆録説教にみる説教の構造 ──ウブロニエールのアルヌルフスの枝の主日説教を例に──

 本稿では、ウブロニエールのアルヌルフス(1255?-1288)が枝の主日に行った2つの筆録説教の構造を比較検討する。アルヌルフスは、パリ大学教師にしてサン=ジェルヴェ教区司祭、後にパリ司教となった人物である。彼は当時を代表する神学者ではなく、パリの在俗聖職者の一人にすぎない。しかしながら、彼は13世紀パリに残された多くの筆録説教のうち、最もまとまった数の筆録が残っている人物である。実際の説教をその場で書きとめたものを筆録説教と呼ぶが、この史料のタイプに関して説教の構造を検討したものは寡聞にして知らない。本稿では、アルヌルフスが行った、年代と聴衆の異なる、2つの枝の主日 筆録説教の構造を比較検討する。それにより、同一主日でありながら異なる聴衆に対して、彼がどのような説教を行ったのか、構造面からその差異の一端を明らかにする。

神門 しのぶ,アウグスティヌスにおける〈教え〉の諸相 ──『教師論』から『教えの手ほどき』へ──

 さまざまな立場で人びとを教えたアウグスティヌスは、教える行為に従事し続ける中で独自の教育思想を形成したにちがいない。本論はこのような見通しのもとで、キリスト教入信希望者(=初心者)に対する教育を主題とする『教えの手ほどき』(c.400)に着目し、『教師論』(389)との用例比較等を行なって以下のことを明らかにした。まず、真の教育者としての神という概念は両著作において不変である。だが、『教えの手ほどき』で、教える者と学ぶ者の人間関係が互いのうちに住まいあう関係として把握されていることは、司教となったアウグスティヌスが、初心者に対する指導を通じて、愛と共同体の理解をより深めたことを示唆している。非キリスト者である初心者にキリスト教の教義を話して聞かせる教授行為は、教える者が依然として神から教えを受ける者であることを自覚する機会でもある。それゆえ、教える行為のことを人間が現実に行なう具体的行為として論じる『教えの手ほどき』において、アウグスティヌスは、真理認識に主眼をおく『教師論』で提示していた教育観を超えているのである。

研究論文

菊地 智,リュースブルクにおける「神と人間との合一」のテーマとキリスト論

 マイスター・エックハルト(ca. 1260-1328)の神秘主義的諸教説を断罪した教皇勅書『主の耕地にて』発布以後、いわば「ポスト・エックハルト」を代表する神秘思想家の一人、中世ブラバントのヤン・ヴァン・リュースブルク(1293-1381)のキリスト理解を、本稿は取り上げる。彼の思惟に特徴的な点の一つは、神と一人一人の人間との合一を主張しつつ、同時に、伝統的なキリスト論を執拗に確認していることである。『主の耕地にて』発布を一つの大きな契機として当時明るみに出された「合一」のテーマに存する神学的難点を、リュースブルクは、キリストの唯一絶対的な救済論的意義の相対化という点に見定め、キリストの意義を再確認することに努めたのではなかっただろうか。本稿は特に、キリスト中心主義的要素の明確なオランダ語著作『永遠なる至福の鏡』を取り上げ、彼に固有の「合一」理解、およびそれと関連するキリスト理解とを検証しつつ、日本では未だあまり認知されていないリュースブルクという思想家の本質的問題を紹介する。

芝元 航平,トマス・アクィナスにおける存在と本質の「実在的」区別について

 トマス・アクィナスは、存在と本質の「実在的」区別を主張したと通常考えられている。しかし、トマスが明示的に実在的区別を語っていると考えられるテキストは初期の著作に数箇所しか存在していない。本論文では、この問題に対するトマスの理解が初期と後期では異なることを論証する。
 トマスは、初期の『デ・ヘブドマディブス注解』第2講において、「存在(esse)」と「それであるところのもの(id quod est)」(本質)との概念的区別の認識から、現実に存在する事物における区別としての実在的区別の認識へと進んでいる。このような移行が可能となるのは、事物の本性が存在との関係の規定を含むことなく、ただそれだけで理解されうると初期のトマスが考えているからである。一方、後期のトマスは、存在と本質の相違を知性による分析と関係づけ、実在する事物のレベルを意味内容のレベルから厳密に区別していない。その理由は、後期のトマスが、存在と本質の相違を単なる概念的区別として理解することが不可能だと考えており、さらに「事物における」相違を、現実に存在する事物の本質を構成的に規定するような相違として理解しているためであると考えられる。

シンポジウム

論題 制度と学知

秋山 学,〈特別報告〉ビザンティン世界における「知」の共同体的構造──写本伝承活動と宇宙論的典礼を基点に──

 ギリシア教父ダマスコのヨハネ(650-750)は、現行ビザンティン典礼における「八調」システムや、復活徹夜祭における「復活カーノン」等の創案者として名を遺す。彼の神学著作『知識の泉』は、『弁証論』『異端論』『信仰詳解』の順で構想されたことが知られるが、伝承史上、11世紀に発する有力写本が『信仰詳解』の直後に『弁証論』を配するタイプを呈している点が注目される。これは復活論を基にアリストテレス哲学を受容したものと解されるが、ヨハネはアリストテレスの『自然学』や『天体論』を読破し、円環運動を天上的なものとするその運動論を知悉していた。10・11世紀マケドニア朝ルネッサンスの古典復興運動を唱道した皇帝ポルフュロゲネトスは祈祷文をも作成し、当時ほぼ現行ビザンティン典礼が整備されていたことが知られる。復活週(光の週)におけるビザンティン典礼には、「八調」による年間の祈祷サイクルをそこに集約一巡させて、永遠的円環運動を具現させる工夫が認められるが、これは百科全書主義の下にアリストテレスを学祖とし、その円環的運動論をもって復活後の永遠の生命を表現する典礼様式として受容した痕跡と考えられる。

矢内 義顕,〈特別報告〉11-12世紀における二つの学校──ベックとラン──

 11-12世紀は、西欧世界における制度と知の大きな変革期である。カロリング朝以来、修道院学校は知的な中心として栄え、12世紀に最盛期を迎えるが、その地位はしだいに司教座聖堂学校へと移行していく。本稿では、ベックの修道院学校とランの司教座聖堂学校の教育と学問を取り上げ、この変革の一側面を明らかにする。
 11世紀後半、ランフランクスとアンセルムスという卓越した教師・神学者の下で発展したベックの修道院学校の知的な活動は、修道生活の完成を目指す全人格的な営みから産み出され、それを目的とするものであった。だが、この学校は、この二人が去った後には衰退する。他方、1080年から50年間、ランのアンセルムスとその兄弟ラドルフスによって発展したランの司教座聖堂学校の学問と教育は、司牧的に携わる聖職者の養成を目的とした。しかし、この学校もその立地条件から、しだいにパリの諸学校にその地位を譲ることになるのである。

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