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『中世思想研究』第50号和文要旨

第50号和文要旨 2008年(平成20年)9月15日発行

第50号目次

論文

松村 良祐,トマス・アクィナスにおけるcooperatio ──第一原因と第二原因の文脈におけるこの語の使用を手がかりとして──

 本論文は、cooperatioという語に関するトマスの理解に焦点を当てることを通じて、この語が神と被造物の関係についての彼の思想において果たす役割を明らかにする。ボナヴェントゥラら当時の神学者らにあって、被造的世界に生じる事象の多くが神との何らかのcooperatioの上で考えられることは、ごく自然な発想の一つであった。無論、被造的世界の事象が被造物を媒介として用いる神の力に由来するものであることは、トマスにあっても変わらない。しかしながら、彼に特徴的であるのは、この語が「恩寵を通じての神と人間の関係」を本来的な対象とすべく周到に用意されている、ということである。そのゆえに、この語の理解を機縁として、我々はトマスとボナヴェントゥラらとの間に神と被造物の関係についての異なったアプローチを見出すことが可能である。この語の持つ特質を恩寵という神と人間の親密な結び付きの内に見出すトマスの理解は、自然と恩寵という二つの次元の相違を際立たせるものでもある。

横田 蔵人,錯覚と志向性の存在論 ──オッカムによるアウレオリ批判をめぐって──

 心の諸現象のなかでもとりわけ驚きに満ちたひとつである錯覚は、いつの時代においても変わらぬ哲学的関心を喚起してきた。フランシスコ会士ペトルス・アウ レオリはアウグスティヌスの歩みにしたがって、錯覚、幻影などといった錯覚現象を単なる逸脱した知覚ではなく、むしろ私たちの認識の根本的な構造を明らかにする証拠であると考えた。これによれば、あらゆる認識活動は自らの対象を、彼が「現れるものとしての存在」と呼んだ特殊な志向的様態のもとで受容するのであり、知覚一般は「現われという様態での何ものかを抱くこと」と定義されることができる。他方、ウィリアム・オッカムは彼の同時代人であるアウレオリの形而上学的装置を余計なものだと見なし、有名な剃刀の刃にかけた。これはオッカムの一連のアウレオリ批判の一部であり、心の志向性の真の本性とその哲学的文法と存在論的な基礎装置を問うものであった。本論文はオッカムの知覚理論の中心的な論点を主にそれを語る言語の問題から整理し、予想される批判にオッカム哲学の側から答えている。

研究論文

小村 優太,イブン・シーナー『治癒の書』「霊魂論」における形相受容と直観の働き

桑原 光一郎,トマス・アクィナスの金銭使用論

片上 茂樹,絶対的に考察された本性とは何か ──トマス・アクィナスにおける普遍と知性──

 本論はトマスの普遍に関する理論について解明を試みている。トマスによれば、普遍には二通りある。一つは、「知性においてある本性natura habens esse in intellectu」であり、もう一つは、「絶対的に考察された本性natura absolute considerata」である。前者は、可知的形象(species intelligibilis)のことである。他方、後者は、知性の抽象作用の対象であるかぎりでの本性を指す。絶対的に考察された本性は知性の抽象作用によっていかなる存在(esse)からも切り離されているが、知性の抽象作用に依存する形で「ある」。この二通りの本性は普遍であると言われるが、それぞれの本性に述語付けられる「普遍」の意味はそれぞれ異なる。知性においてある本性は、多くの個体の類似であるという意味で普遍であり、絶対的に考察された本性は、本性的に多くのものに内在し、多くのものに述語されうるという意味で普遍である。

長町 裕司,知性的活動原理における,<神のimagoの在り処>の究明 ──ドイツ神秘思想成立へ向けての「理論的布石」としてのマイスター・ディートリッヒ──

 ドイツ神秘思想の成立と影響作用史にとって、マイスター・エックハルト(ca. 1260 – 1328)の思想遺産が決定的意義を有することは、何人も疑念を差し挟み得ない。但し同時に注意すべきは、エックハルトに独自な思考様式の生成にとっての全体的布置といったものは、哲学史の或る段階における変容された理論的準拠枠の査定によって初めて十全な意味で明るみに出され得る、ということである。このような開明にとってとりわけ必要なのは、エックハルトに対する直接的影響関係に立つフライベルクのディートリッヒ(ca. 1240 ‐1318/20)の特徴的かつ創造的な思考諸要因を究明するという課題である。本論稿の主要な関心事は、「能動知性(intellectus agens)解釈」を中核とするディートリッヒの独自な理論的歩みを「神の像(imago Dei)」の問題脈略との連関において追究することに存する。ディートリッヒは、「神の像(imago Dei)」の問題構制を彼の初期の著作である『至福直観について(”De visione betifica” ca.1290)』において主題的に取り扱っている。この精神形而上学的な著作においては、人間の神との至福的合一化(unio beatifica cum Deo.)にとっての可能な根拠へ向けて知性的本質存在の新たな組織法が投企されている。ディートリッヒの中心的テーゼは、「神の像は唯一、神の内的生か ら直接に発出してその神的生と同形相性(conformitas)において恒常的に活動的な能動知性においてのみ刻印されている」と定式化される。この思考脈略のテキスト解釈から出発して、ディートリッヒの能動知性論の更なる展開路線を明らかにすることにしたい。

高木 保年,エックハルトにおける知性認識およびその再帰同一構造について

 本論の目的はエックハルトによって神に妥当とされた「知性認識」の内実を局面ごとに明らかにすることである。『パリ討論集』第1問題で神には「存在」が認められず、神は「知性認識」あるいは「存在の純粋性」であるとされている。本論では神名ego sum qui sumを共通項として「知性認識」及び「存在の純粋性」について解釈し、「知性認識」と「存在の純粋性」及びsum qui sumの「再帰同一性」に着目する。これらの考察の結果、「知性認識」に関わる「言」は、存在の局面のみならず、「言」の作用という認識の局面において も、「知性認識」の「再帰同一性」が妥当すると理解される。また、本論では神の「実体」及び「関係」という範疇を踏まえ、さらに「言」が「出生」にも関連していることを確認する。ここから、エックハルトにとって神を「知性認識」と名付けることは、「非ペルソナ=実体」としての一なる神と「ペルソナ=関係」 としての「父・子」の神との両方を内包的に名付けることであると同時に、「神」の「実体」と「関係」という範疇間の移行を動的かつ神秘的に名付けることであると理解される。

町田 一,ライプニッツにおける奇蹟と自由 ──「目的因の考慮」という視点から──

 ライプニッツは、神の意志の自由と人間の意志の自由の類似性をともに「奇蹟」を行うという点において認めている。この時の類似性は、神も人間も、機械論的に説明可能とされる自然の秩序には従わない、という意味において言われている。「奇蹟」は自然の秩序からは説明され得ないからである。特に、人間の行為選択は「私的な奇蹟」とも言われている。しかし、「奇蹟」の行使においてすら「最善律」に従う神の場合と、必ずしも最善を選択するとは限らない人間の「私的 な奇蹟」の場合とでは、歴然とした落差が認められる。その落差は、双方の「目的因の考慮」という視点に関係している。人間の「目的因の考慮」においては、 必ずしも最善に向かうとは限らないがゆえに、「判断保留」を行い得る能力が認められるのであり、ここにおいて、「人間の自由」固有の論点が見出される。 「神の自由」の成立要件に「判断保留」を行い得る能力が含まれることはないからである。

特別報告

特別報告A

岩熊 幸男,Vocales再論

特別報告B

今 義博,エリウゲナの自筆写本をめぐって

 本報告は、九世紀の哲学者・神学者・詩人であるエリウゲナの自筆の筆跡が奇跡的に、彼の著作の九世紀の諸写本に後から新たに訂正・削除・追加された文言の うちに、確証されるに至った経緯について、主としてÉ. Jeauneau and P. E. Dutton, The Autograph of Eriugena (Brepols, 1996)に基づいて報告する。
 エリウゲナの自筆問題はまず、20世紀初頭にドイツの中世古文書学者ルートヴィヒ・トラウベが、エリウゲナの著作の諸写本に現れるアイルランド風の島嶼体で書かれた加筆・訂正・欄外表題などの筆跡がエリウゲナの自筆であるとしたことから始まった。彼の弟子のエドワード・ランドは師トラウベのこの説を再調査するうちに、トラウベが注目したアイルランド風の島嶼体は一種類ではなく二種類あることを新たに発見して、それぞれi1、i2と名付けた。しかし彼は、それらはいずれもエリウゲナの自筆ではないと結論した。その後、エリウゲナの著作の諸写本にはアイルランド風の島嶼体としてi1とi2の二種類があることが研究者によって一般に認められるようになった。そこで、それらがエリウゲナの自筆であるか否かについては次の四つの仮説がありうることになった。

仮説I:i1もi2もエリウゲナの筆跡ではない。
仮説II:i1もi2もエリウゲナの筆跡である。
仮説III:i2がエリウゲナの筆跡である。
仮説IV:i1がエリウゲナの筆跡である。

 これらの仮説をめぐってベルンハルト・ビショッフ、テレンス・ビショップ、エドゥワルト・ジョノー、ポール・ダットンらは最終的に一致して、i1がエリウゲナの自筆であるとの実証的な結論を得た。 ジョノーはこの結論に基づいて、エリウゲナの主著『ペリピュセオン』を新たに編集し、エリウゲナの自筆部分が明示された新しいテクストを刊行した。これにより、現在、エリウゲナ研究は新たな段階に入った。

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